新しい日本語による批評に向けて のための覚書
新しい日本語による批評に向けて と題したテクストを書こうとし、またそのようなものがいつか書かれるべきだろう ということをいつも考えるのだが、私としてはエリオットの「 伝統と個人の才能 」が、あくまでアーティストと読み手にとって不可欠な批評の定義をすべて網羅し、かつ明晰にそれがなしうるすべてについて殆ど説明しおおせていることもあり、腰を上げられずにいる。 末期消費主義の世界で生まれた私たちには想像ができないことではあるが、批評(critique)はこのような仕事に不可欠な内燃剤と言うことができる。それは私たちの魂と尊厳のための仕事である。鮎川たちと異なる理由で私はエリオットを適切な軸として選ぶ。 アーティストと読み手、書き手とオーディエンス、送信者と受信者、こうした二分法が既に脱構築に値する一種のメンタリティであることは自明とした上で、その時、この二者を選びとることで的確に排除されているのはその中間でぶら下がっている批評家である。エリオットを出発点に選ぶのはまさにエリオットが 著者と読者 だけを批評の生成に必要な参加者として選んでいるからだし、そこでエリオットは、書き手が次の書き方へ、ある表現が次の表現技法へと異化する歴史的過程に不可欠な営為としての批評以外を全て「感想」と見做して棄却しているためでもある。 これは往々にして優れた批評家がむしろそれ以上に優れた書き手である事実や、優れた作品がおしなべて批評的である事実とも明らかに連関している。 あえて乱暴に言えば、そこで私たちにとって必要なのは参加者だけなのだ。言ったことはいずれかの形で、実際にやらなければならない。ゴダールもこう言っている。「前人未踏の未知に向かって現に飛び込もうとする者に対して、側で立って見ているだけの輩に言えることなど何もない」彼が口うるさい(時として不明瞭な)批評家であったことは、真に心強いことである。 恐らく、ここで主張しようとしていることは、批評という文化それ自体が、本来は階級・出自・分野を問わず なにかを創らんとする人々にとって強力な武器となり、長く彼らを助け、支え、強く活気づけるものであり、私たちはそれを必要としている ──ということになるのだが、そもそも私たちはそのように一ミリでも感じさせるような批評に母国語で出会うことは極めて稀であり、なんなら私たちの大多数は250年経って...