ポスト資本主義の内実が、2025年に至るまでの数百年間にわたって常に、高度な産業技術と超法規的な暴力という金融商品に支えられた植民地主義でしかなかったことになぜわたしは驚きを感じるのだろうか?ヘーゲルを読んだナイーブなバカ大学生にすら、後期資本主義とその目下の尻尾である新自由主義が19世紀の帝国-民族-資本主義からの弁証法的な発展系であるなどとはとても認められないだろう。なぜならそうした19世紀に用意された歴史の悪魔から、2025年のわれわれは不気味なほど一ミリも遠ざかっていないからだ。科学技術─軍事技術とその実装形である戦争。それは、歴史的な事象などではなく、巨大な市場における巨大な商品と呼ぶに相応しい。戦争が未だひとつの対象として捉えることに難く、またそれが一般メディアでもタブーとなっている事実を鑑みてこれをHyperproduct(超商品)とさえ呼んでもいいかもしれない。ピンチョンは、『そして大企業と国家が──いや、もしあなたがこれらを別々のものだと今でも思っているならの話だが──』と書いたが、「重力の虹」に出てくる重化学企業体の実名たちをインターネットで検索すれば、それが今でもヨーロッパの主要なエネルギーインフラを担う一線をほぼ独占していることは確認できる。国家は存在しない。そこには利益集団がいて、権益関係があるだけだ。誰が、誰に、どこに、何に資本を投下したか。ガザの虐殺をやめろと叫ぶことは、決して十分にはなりえない。なぜなら道義的な行動指針など軍産複合体には最初から組み込まれていないからだ。むしろ、わたしたちがいくら叫ぼうとフル画質でライブ・ストリーミングされる民族浄化と大量虐殺を一向に止めないことこそに、明らかに示威目的のおぞましい動機がうごめいている。毎朝TVの爽やかなCMで目にする大企業の英語版ホームページには、米軍の攻撃ミサイルシステムに対する巨額の出資と技術提供の成果が誇らしげに書かれている。ポスト情報戦の末端にわたしたちは毎日ログインしている。そこは、かつて言われた「戦線の最後方」ですらない。戦線は霧のように、粒子状に細分化して拡がり、ほとんどすべての社会空間に浸透している。直接の武力衝突がここに来る時、その粒子は急速に熱を帯びてわたしたちの実身体の周りに固体化するのだ。そして加速度的に高熱になり、なにもかもを焼き尽くすだろう。民間人に対する無差別攻撃と、殆どルーティン化されたシステマティックな暴力、たとえば幼児の頭をゲーム感覚で次々に遠距離から撃ち抜くIDFのスナイパーたちがインスタグラムにupする笑顔のバカンスの自撮り、それだけをとってももはやWW2の神話、虐殺や無軌道な暴力に抗する自由経済という、わが国では今でも機能しているプリンセス・ストーリーにはもはやなんの有効性もないことは明らかだろう。それは、平和ボケなどという話では決してない。歴史というひとつの悪夢から、わたしたちの国は覚める方法を探してすらいないという話だからだ。「救われるに十分なほど、まだわたしたちは悲しんでいない」は、ゴダールの最期の作品のことばである。彼のもっとも過少に評価され、半ば嘲笑の対象ですらあった70年代の作品群は、2025年に異様なほど強固な説得力をもって立ち返ってくる。
ヒースローからCDGまでの1時間弱のフライトで隣の席に座ったおじさんに日本の政治状況はどうなのかと聞かれ、言い淀んでしまった。なにもかもだめだ、論外だと言った覚えがある。それ以外にどう説明できよう?「のほほんとしてそうな国なのにな」とおじさんは言った。彼はアルジェリア人で、ロンドンに25年住んでいるが兄弟の葬儀のため国に帰るのだと言っていた。アルジェリアの政治はどうなのか、と聞き返したのは単に慣習的な動機によるものだったのだが、それが極めて根深い問いであることに気付くには遅かった。彼は「いまでも過去からの問題が山積みだ、植民地時代と革命の…」と言った。あなたが話しているおれはアジアの植民地主義の、帝国主義の、かつてそれに見事に失敗した敗残者のぶざまな末裔なのだ、とは言えなかった。そこで会話は途切れた。
サングラスを外した彼の瞳は、ヘーゼルナッツのような色をしていて、わたしの祖父、並外れてタフで不器用な田舎の肉親を、それでも思わずにはいられなかった。
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