牙の生えたノウメナ、未だ定義されえぬ文化の終り
もしかしたら 紹介することのできないもの、レコメンドできないもの は既にかなり大事なことを示唆しているのかもしれない。よく知られていないおもしろいカルチャーや、優れたアートを紹介することは大切なことだ、というのはじぶんのなかで感覚としてずっとある思想なのだけれども、ここでいう紹介できない とは主に、起こっている現象の本質的な特異性に反して紹介することがなんら意味をなさない、またそのように外部の空気へと引き摺り出すことがその文化の特異性を一発で破壊する可能性が高い、という理由においてである。これは根拠のない想像なのだが、ダリアコアやヴェイパーウェイヴ、ハイパー、リミナルetcといった、予め商品化されたミメーティックで自意識過剰な「文化」が日本では少し、もしくはかなり遅れてとりなされるケースが非常に増え、そうした主要ソースから以外の外部で進行している包括的な文化現象に関する情報が著しく乏しい状況というのは、現在のインターネット・コミュニティが、そしてインターネットを通して伝搬するプロファイルが持つ極めていびつな特殊性が──また極度に細分化し複雑になった文脈が、外部者には決して容易に読み取れない(これは国内外問わず、特にユースカルチャーに関するコラムの99%が陥っているといっていいだろう)、また読み取れたところで超自己言及的なトレンド・ストリームの中では(他の文化商品と同じく)明白な意義を持ち得ないことが大きな要因として噛んでいるのかもしれない。
ここへ微妙に関係する形で自分が思い浮かべているのは、とある絵師の作品群を取り巻くいくつかのことである。彼女は主に、鬼頭莫宏作品などの二次創作をインターネットに投稿していて、MSペイントで殴り描きされたそれらは、独特の色彩感覚とともに彼女の元々の高い画力を示すものを感じさせる。そして、彼女の作品群はどれも、明らかに物理世界に存在しないオブジェクトの描写と宗教的なものを含む数多のイメージとのコラージュ、そして彼女の「思想」──明晰だが荒漠とした神学観と、終わりのない地獄に関する長い文章とがすべて一枚のなかに混在するという形で提示されていた。彼女は20代のトランスジェンダーであり、新宗教の教会に通う日以外は家で絵を描いていて、「虫」と分類される何者かが彼女に精神的・また肉体的な苦痛を伴う攻撃を絶え間なく仕掛けていることについての長い告発文を時折投稿することがあった。
自分は、彼女がたとえ誰にも理解されなくても理性的にあろうとする努力を持って(その文章は妙に落ち着きを帯びていた)世界を自分の眼で理解しようとし、またそれを優れたアートとして表現していることに個人的にとても励まされていた。じぶんにとって疑い得ない強固な現実に抗うべくこれを本気でアートとして形にするということは、殆どの人にはできない。愚痴や泣き言を感傷で飾り立てて述べることと違って、それは決意を要することだから。彼女はいつも多くのファンからの質問や投稿に答えていたが、それはどれも突き放すような距離感で文末が必ず「身体に気をつけてね、アノン」で締め括られる奇妙なものだった。時々チェックしては、Likeをつけていた。そもそも絵が唯一無二で、本当に素敵だったのだ。
Milady MakerというNFTアート最右翼とも言われる仮想通貨コミュニティがあり、この創始者が彼女の作品を個人的に推していたと後から知った。自分は全く別の経路でMiladyを知ったのだが、これは異様に密教的なNFTコミュニティで(こちらは紹介しても問題はない また一見したところで文脈の把握は難しい)当初の住人たちは中国語と英語のチャンポンでハイデガーやバタイユを引用し、そこにシノ・フューチュアリズムや加速主義の断片を冗談半分で交えながら、インターネット上に漂流する東京のポップカルチャー、ポスト裏原系ルック、アニメの二次創作(その趣向はlainのような''メジャー''作品を完全に無視した非常にニッチなものであり、彼らの初期の公式サイトに至ってはふたばログ保管庫のフォーマットをそのまま踏襲したものだったと思う)、00年代のコンシューマー美学といった残滓的な文化の断片群に手を加えることなくそのままポスト現代美術として扱う遊戯的な手つきを選民的で曖昧な共通感覚として共有し、また嗜好していた。また、トランスジェンダー思想の過激な部分やアメリカ南部のレッドネック的な民兵武装主義を半ばポーズとして取り入れる傾向にあり、インセル・カルチャーと微妙に差異化を図っていた。Miladyはランドよろしく金融リベラル右派的な傾向が非常に強いコミュニティで、その暗号的かつ極めて冷笑的なトーン、またペダンティックにNFTを理論武装している点で他のNFTコミュニティとは明らかに一線を画していた。というか浮いていた。NYCの完全に匿名のインターネット・コミュニティ、Angelicism01滲み出るエロス(天使主義──このコミュニティは全員が同じ名前で空白のアイコン、00年代ティーン・ポップのガールフッド文化やセレブリティカルチャー、ネットいじめ、サウンドクラウド信仰、双極性障害、etcに関する批評を、名前通りベンヤミンを下敷きとして思弁的実在論などをジェスチュアとして援用しながらSubstackで語る こちらは匿名であるが提唱者が女性であることもあって女性の参加者が比率として多いと思われる フェムセル・カルチャーとも微妙に関連がある)は、Milady Makerのデモグラフィックとオーバーラップする形で活動している。どちらもNYCの若手アートシーンの土壌を下敷きにした匿名のコミュニティで、ゴシップを含めた裏側の情報経路として機能しているように見えた。
と言うのも、これらのコミュニティを連結する結節点として、Red Scareという人気podcastが存在する。これは個人的にも聴いていたのだが、超シニカルなコントラリアン逆張り主義者のダーシャとアンナというロシア系女性二人組で、2018年のバーニー・サンダース出馬の際にダートバッグ・レフト(=土嚢左派。モラル重視の左派リベラル的言説に見切りをつけ、ひたすらアイロニックで攻撃的な言説に突破口を見出す。)の先鋒として頭角を表した。過去この番組に出演したゲストはスラヴォイ・ジジェクとアレックス・ジョーンズ、と言えばその捻くれた側面は十分に伝わるだろう。アンナはPayPalのピーター・ティールと個人的な友人関係にある。また、先日問題となったマット・ヒーリーの発言も、彼女たちと長年の共闘関係にあるAdam Friedland Showでの発言である。そこにはいわゆるDimes Square、NYCロウワー・イーストサイドにあるチャイナタウンのマイクロセレブリティ文化の中に、こうした(左派リベラル言説の無効性を超克するという名目での)社会主義者の自認に立脚したハイパー左派的とも言える言説や、火遊び的なレイシズム・セクシズムを含む侵犯的な挑発行為、また民兵的イメージを含むホワイト・トラッシュ文化への憧憬と物神化とが、「もっとも先鋭的な態度」として許容されていることが前景としてある。そして、Lana Del Reyのペルソナに見て取れるように、(2016年に意図せずしてオルタナ右翼のアイコンとなったTaylor Swiftの不幸なケースにもその予兆はあった)そうした態度のメインストリーム化は既に少しずつ顕在化している。東京にも、この周辺のコミュニティと繋がりのあるいくつかのパーソネルは存在しているのだが、シーンの性格から言ってあまり人目にはつかない。
今年5月にイーロン・マスクがこのMiladyを称賛してから時価総額が一時は数倍に跳ね上がったのだが、この異様なコミュニティの思想に関する日本語の情報は全くと言っていいほど無く、基本的には投資に取り憑かれた人々が飛びついては文脈を理解することなく頭を捻っていたようだ。Milady Makerの創始者Charlotte FangはNYC在住の20代のアジア系アメリカ人で、素性はよくわかっていない。昨年三月には、シャーロットがかつてカリユガ加速主義(カリ・ユガとはインド哲学における歴史区分で、暴力と性的・倫理的な頽落が常識化し奨励される暗黒時代を指す。紀元前3102年に始まり、43万2000年続くと考えられている ファングという偽名もランドの『牙の生えたノウメナ』からだろうか?RedditにSorcery of The Spectacleというギー・ドゥボール主義の批評哲学サークルがあり、カリ・ユガの現代思想的な解釈に関してはここを参照するとよいかもしれない)なる思想を提唱して、インターネットで10代の少女たちを人格支配し、個人崇拝カルトを形成してその参加者には黒魔術の図式を腕に彫る自傷行為を要求していた、という匿名の告発がなされた。当人は噂をはぐらかした。真偽は今もわかっておらず、その話はいつのまにか立ち消えていた。
そして先述の絵師は、この黒い噂がつきまとう人物が告発されたときに短い文章を発表した。「誰とも会わず話もしないわたしにとって、シャーロッテはわたしの作品がいかにアートとして優れていて重要かについて本気で熱心に説得してくれた唯一の人だった わたしを家の外へ連れ出してくれたし、なによりも彼のおかげでわたしは生まれて初めて作品の対価を受け取ることができた もう長らく話をしていないし、本当にそういうことを彼がしていたのかはわからない わたしは彼との記憶以外を詮索することに興味がない」という趣旨の文章だった。
一体なぜこれを書いているのかは、自分でもわからない。その内容は書き出してみるとオチもなくただ異様で、進行形でおぞましく、救いがない。イーロン・マスクを含めその登場人物の殆どはまるで『悪霊』のダイアローグに登場する人物描写のように感じられるし、物神事実崇拝と化したアメリカのカウンターカルチャー産業の全体は完全に有効性を失い、そこではシニカルなジェスチュアが独り歩きしていることがわかる。
じぶんにとってそもそもインターネットとは明文化できない形で人々の意志が衝突する場所で、それは好きとか嫌いとか、正しいとか間違っているといった二項を本質的に欠いた、しかしまぎれもなくなんらかの文化が醸成する場所なのではないかという感覚がかつて自分にはあった。そして今でもそこからなにを選びとるのかは個人の裁量と、その者の良心の問題である。なにか、答えもなく真偽も判然としない、モラルのない、救いのないグチャグチャな情報の乱雑な交錯、そこに何かある(もしくは、あった)という感覚……誰にも頼まれることなくインターネットに創作物をアップロードする⇄誰にも頼まれることなくインターネットで喋り続ける。凄まじい物神化の絨毯爆撃の中で、文脈も繋がりも持つことなくなんらかのアフェクションを受け取り⇄与える。そこには明確な意図はなく、そしてただアモラルな状態が拡がっている。
そして、これを集団的な観点から賛美する気は毛頭ない。というか、こう見てもわかるように賛美できる点など殆どない。この文章は、⑴ 創作された「クールさ」や「リアルさ」を新しさや真正性の担保として民主的ムーヴメントの形で競争のうちに追求するトレンドという20世紀初頭のイデオロギーは、必然的に出口のない自己言及ループとアグレッションに陥って無目的化し・制御不能なハウリングを起こすという点においてもはや少しも有効でないこと、⑵ またそのような長期にわたる「文化」の潮流が政治領域でのあらゆるコミットメントをすべて相対的なジェスチュアとして取り扱い続けたことで結果としてそれを無力化したこと、⑶ アカデミアなど公的機関の手で承認される「正しい」事実への信頼は民事レベルで見ても完全に衰退しており、その集団的な放棄と暴力的な「オルタネイティブな(選択的)事実」への大規模な移行がインターネットで既に起こっていること、そして⑷ アメリカのような国では文化産業はそれに歯止めをかけるどころか本質的に加速させている側面すらあること、を再確認する形で終わる。ただ、そのような悪夢的な有り様は仮想空間の定義に反して自分にとってリアルな、実態をもったことだと感じられる、それは書いておきたい。そして、これらのことを観測したわれわれは、われわれにとって望むべき現実を選び取る準備が実際的な戦略とともにできるに違いないと直観する。単にペシミスティックな現状分析をしているつもりは一切ない。もっと世界を理解したいだけだ。
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