[翻訳] Lecture in Photography—Wolfgang Tilmans
Lecture in Photography—Wolfgang Tilmans
18:30 今お見せしたビデオ(0:00〜12:00)は、『コピー機(Copier)』という作品です。私に生まれて初めて自らを精一杯表現することを可能にしてくれた芸術的なインストゥルメント(機材)への、オマージュのつもりで作ったものです。
19:10 それまで私は天体観測への興味に取り憑かれた少年だったのですが、14歳のときに突如として一人の世界的スターに…カルチャー・クラブのボーイ・ジョージに熱狂的にのめり込みました。
19:20 それからというもの、あらゆる方法で自分を表現することを試みました。ペインティング、ドローイング…服を作ること、左はその写真ですが…
19:40 それから歌うこともしました。たった一つ手を出さなかったのは写真でした。なぜかというと、私の父はかつて…というか今もそうなのですが…熱心なアマチュア写真家だったのです。2 1/4(Two and quater)カメラを使うような…そして私の祖父、また曽祖母もそうでした。反抗的でエキセントリックな少年が絶対にやりたくないたった一つのことと言えば、自分の親がやっているのと同じやり方で自己表現をすることだ、と言えるでしょう。(笑)
20:21 そのせいか、自分が写真をやるなんて少しも思わず育ちました。それでも写真のことは好きでしたし、とくに新聞に載っている写真を眺めるのが好きだったです…特に親が購読していたフランクフルター・アルゲマイネとタイムズ・マガジン……いつもあの、印刷された小さな写真のなかに世界のすべてが見事に囲み込まれているように感じました。10歳か11歳のときにタイムズで見たガイアナのジョーズタウン…自殺カルトの写真…ああいう…とにかくなにか出来事(event)の写真ですね。それは、よくよくみると小さなインクの点であるのにも関わらず、見ると私の脳に世界のすべてを一気に展開するんです。
21:40 その時に直感的に感じたことから大体7、8年が過ぎて…18歳の時、近所のコピー屋さんに置いてあった白黒のコピー機と出会ったのです。ファンジンが作りたくて…つい最近この街にできたコピーショップの軒先にこう書いてあったのです:『キヤノン、レーザー。コピー機あります』レーザー…!わお!それは私が最初に触れることのできたデジタルのフォトコピー機でした。スキャナーのついた…スキャナーという言葉も初めて知りました。1987年のことです。…レーザーでドラムにイメージを感光させ、付着したトナー粒子でペーパーに印紙する。それは2000年台初頭まで続いた伝統的な写真印刷…ミラーとレンズを使ったそれとは一線を画する物でした。突然に、信じ難いポテンシャルをこの機械に感じました。これは写真をハーフトーンにtranslate(訳註;翻訳)して出力できる初めての機械だったからです。従来のコピー機は単に白黒でラフなグラデーションしか出せなかったのですから。
23:50 それは言うまでもなくデジタルの初期の時代です。また、デジタルのフォトコピー機はその独特のアーティファクト(訳註;画像の乱れ)も大きな特徴でした。これは、12 × 60インチサイズのフォトコピーです。インターレイル・パスでエディンバラに行った時に撮りました。私はデジタルコピー機が写真を「翻訳」する有り様にただ心打たれていました:カラーを潰して真っ平らにする…長期休暇の画像を…しかもそこには何かが、私には制御できない形で足されている。
24:21 これがなぜだか私のトーンを、20年近くやることとなるものを決定づけたのです。それはつまり、この「翻訳」と制御の相互交感(This interplay of translation and control)でした。このメディウムをどこまで遠く(How far)探求できるか、そしてどこまで頑固(rigid)にそれを追い求め、いつ手を止めるのか、いつ手を放すのかを知る。フォトコピーは、技術的にみれば、工業的に下拵えされた(pre-produced)紙に過ぎません。それは、私が写真に直接触れることなくスイッチに触れて起こる引き落とし(charged)、もしくは変形の産物でした。これらフォトコピーには言いようのない美が、また豊穣なテクスチュアが感じられました。ドローイングなどの他のメディアはすぐさま私にとって過去のものとなりました。
25:43 この頃が分岐点でした。こうした機械の語り口、それが私に最もふさわしく感じられる話し方、もしくは話したかった口調だったのです。学校を出てすぐにハンブルクに行き、小さなアート・カフェで個展を出してもらえることになりました。少しずつ前より大きな個展へと出し始め、初めて自分のカメラを買いました。それまでは休みに旅行をするときに母のコンパクト・カメラ(Point-and-Shoot Camera)を借りて行き、それ以外は全てファウンド・フォトグラフをコピーする、という形でした。この時、奇妙な形で、私は何も知りませんでしたが…当時NYCで起こっていたアプロプリエーション・アートと並走していたことになります。しかし私は、写真を絵画から異なるものとして切り離す必要を一度も感じずに済んだと言う点では幸運でした。美術館に足を運ぶようになった15歳か16歳の頃、ケルンやデュッセルドルフ、パリなどで目にできた、ラウシェンバーグやウォーホールのようなポップアーティスト、それからポルケやリヒターのようなドイツ人の画家たちはみな美術館で存在感を放っていることを感じていましたから……だから自然に、きっとこれらの絵画はどれも「レンズから出発」しているんだ、写真を起源として…と思っていました。恐らくそれは自然に…新聞紙や雑誌に載っている写真に価値を感じる、と言う自らの経験と結びつけて理解していたのです。なぜなら…ウォーホールは、要はシルクスクリーンに印刷された写真(printed, a silk screen photograph)をやっていたわけですから、それと自分がやっていることに特に大きな違いを感じなかったのです。つまり、私は絵を描くことなく画像を出力している(making picture)つもりでした。私は現代の画像(contemporary picture)を作りたかったし、使える物なら新しいものはなんでも使いたいと思っていた。それも、誰も過去にやっていない使い方で。
29:10 この写真は私の初めてのピクチャーだと思っている作品で…18歳の誕生日の前後に撮った、私(”I Am”)についての決意表明のようなジェスチュアと言えばいいのか…また私の初めての抽象画でもあります。(笑)初めてのセルフ・ポートレイトとも言えますね、シャツも着ていなければ脚も写っていないただ単純に撮影した…。
29:45 さっき話した、自分で買ったカメラと言うのは…ある意味ラッキーな出会いでした。なぜなら最初はコンパクト・カメラを欲しかったんだけど…売り場のセールス担当の人がかなり詳しい男で、Contax SLRを勧めてくれたんです。本当は買うつもりはなかったですが、50mmのカール・ツァイスのレンズと一緒に買いました。買って撮り続けて半年もしないうちに、あることに気付きました。これを使ったほうが俺は巧く「話せる」ぞ、と。コピー機が与えてくれていたパースや、歪みや、減算よりも…。
30:35 そしてハンブルクに移り住んだ頃…人生で初めてユースカルチャーに参加することができました…本当のナイトライフ、かつて熱心に読み漁っていたものの一部になって…例えばずっと愛読していた、UKのアンダーグラウンドからレポートを届けていたi-Dマガジンのようなもの…。当時、UKでは新しい音楽が現れていました…アシッドハウスです。だから…家を離れて一人暮らしを始めたのは、87年ころですが、それはこのハウスミュージック…まさにこの街(シカゴ)で産まれたものですね…のシーンがヨーロッパ全土で爆発的に顕現する瞬間とほぼ完璧に重なっていました。
32:00 この爆発的なサブカルチャーによって誰もがエクスタシーでハイになり、形式やステータスの点でかつて設けられていた禁止を片っ端から置き去りにし始めたのです…なぜなら80年代は何もかも…あのパワー・ドレッシング(訳註;サッチャー期のファッション)みたいに…いや、わからないな、別に80年代のすべてをリストにしなくてもいいですよね(笑)80年代初頭、中盤も確かにグレートだったとは思いますが、それが金やステータスを追求するものであった限り、面白くはなかった(was not interesting)。
32:55 アシッド・ハウスの革命は…深いところにおいて政治的なものでした……9年前に初めてここ(シカゴ)を訪れたとき、年配の人々に話しかけてみたのですが、誰一人として、ここで培われていたものの巨大な重要さと純粋なクリエイティヴィティを認識しているようすではなかった。Tyree Cooperの”Acid Over”を私は今でも聴いていて鳥肌が立つんです。それは全くもって新しい始まり、世界そのものが変化することを予感させました。私はナイトクラブにカメラを持って出掛けるようになりました。20ドルで買ったチープなフラッシュを装着して。そこで何が起こっているのかを見せたかったのです、あのユートピアンで政治的な質感を…そこで人々が古いものを打ち捨てて多層性的(Poly-sexual)な、ゲイかストレートかで線を引くのではなく……ストレートの人々はピースフルに、酔っ払って喧嘩をしなくても良くなり、皆お互いにハグを交わしあうことができた。Eでハイになってね。(笑)
34:50 これらの写真は92年、それから少し後ですね、に撮ったものです…私が思うに、同時にそこでは…89年でしょうか、ヨーロッパでアシッドハウスが本当にビッグになってから1年が経った頃、ベルリンの壁が打ち崩され、更に新しい、非イデオロギー的な世界の到来を感じていました。そして…その感覚の激しさによって、私はその感覚が一体どこにあるのかを「翻訳」したかった。かつてフォトコピーの表面の質感に意味を見つけたように、ナイトライフの深い意味を、皮膚の表面や、服、汗が、ただの瞬間を超えて意味を翻訳していると感じていました。
36:00 2003年に製作した”Lights (Body)”というビデオでは、光が、ロボティックで機械的な動きの光が、土曜日の夜に熱気で満ちた色々なナイトクラブの天井のすぐ下で動き回っているのを撮影しました。いくつもの夜をね。そこに写っている唯一の人間は、時折光のビームの中を横切ってゆく埃だけです……あれは皮膚の表面や、着ている服から炸裂しているのでしょう。そこにはヴィジュアルな豊穣さの間で起こる相互接続があります…。またナイトライフが持つ政治的なポテンシャルは私の関心の中心にあり続けました…中心に…?うん、重要な関心であり続けました。それは私が…入ったり出たりするものだったから。夜に出掛けるたびに毎回写真を撮っていたわけじゃないし、むしろそうすることは実際極めて稀でしたが……あの、そこで写真を撮ることが稀なのであって、遊びに行くことの方じゃないよ(笑) (I don’t photograph every time I go out…It’s actually quite rare…but…that I photograph, not that I go out)
38:00 例えば、これは私たちがいたロシアのある場所の悲しい解釈です。悲しくもサンクトペテルブルクで最後にたった一つ残されたゲイ・ディスコの……去年ここに3回行きました、マニフェスタ・ヴィエンナーレで訪れた機会に…マルティン・ストリートの荒廃した並びに、全て閉じられたドアの側に小さな小さなレインボー・フラッグが一つだけ掲げられていた。レインボー・フラッグが本当にもう一度意味を持つような、そう言う瞬間です。今私たちがしているように当たり前にそこであぐらをかくべきじゃないんだ、と言うことを…と言うのも、伝統的にはサンクトペテルブルクはロシアで最も自由な都市で、ゲイやレズビアンが住むことのできる、また実際にそうした……私が訪れていた90年代には自由でオープンな素晴らしい場所だった…20年が経って彼らのLGBTコミュニティは荒漠とした境地に立たされています。だから…私はいつもナイトライフを表面的な物事、つまり行動と切り離されたものとしては一度も見なかった。
40:00 彼は去年サンクトペテルブルクで私がポートレイトを撮った十人のうちの一人です。彼らはそこで最後に残った唯一の活動している団体で、今も情報を発信し、事実を伝えようとしています。
40:27 しかしロンドンでは、私たちはデモに行けるし、数千人で一団となって前ローマ法皇に抗議したりすることさえできる…つまり…このレクチャーはヒュー・エドワーズの栄誉の下に行われているわけですが、彼の時代には彼はそんなふうに、彼がそうしたかったであろう形では表明することは決してできなかった…私は、今こうして私たちが享受しているような自由はどこかでは常に窮地に立たされていることを理解しています。
41:28 この興味ぶかいフォルムと、内出血している表面(bleeding surface)は…さっき言ったように私の今も続く関心なのですが…その関心は三次元の世界へと拡張(extends to three-dimentional world)されてゆきました、なぜなら私に視えるのは三次元の世界で、
42:00 私がする仕事は、それを二次元の写真へと「翻訳」することなのです。画像(pictures)へと。
42:18 これらの写真は、私が1991年に始めたそうした仕事のファミリーです。生地(drapery)の仕事として…。私は……写真は、私の数多の夢をプレキシグラスの審級(Plexiglass-hood)に引き下ろさずに済む、私にとって極めて経済的(economical)なメディウムなのだということに気づきました。写真を撮ることによって、私はこうしたものを写真にすることによって、彼らを一時的彫刻(temporary sculpture)として保存すること(preserve 訳註;食べ物や花を保存すること)ができるのだと。これなら…他の方法よりも比較的簡単にこれらを取り扱うことができる(much easier to deal with them)のです。
43:10 そして紙。これも2000年から私の興味の中心にあります。この用紙は……90年代初頭からはカラーの、印画紙は…変化の道を辿りました。次第にそうした…かつて暗室で感光されていた印画紙を撮るようになりました。
43:50 そして2001年に印画紙を撮ったこの一連の作品を”Paper Drop”という名前にしました。当初はもっと、その名前には「落ちること(falling)」を仄めかす意味合いがあったのですが…私はいつも、そこにある何か数学的な機能が…あたかもグラフみたいに…それが重力と表面張力の狭間で自ら形をとるのが好きでした。
44:30 2005年からは、印画紙をそれ自身に向かって折り曲げるようにしました。すると突如として、Paper Dropという名前は自ら成就する予言のような響きを帯びてきました。これは2011年の、”Paper Drop (Reversed, green)”です。
45:00 そして私にとって初めての正式な個展…1993年、ケルンのDaniel Buchholzでの……私は7年間で初めて、フレームなしに写真を壁にテープして展示する方法を採りました。写真というオブジェクトの美を見せたかったのです。写真の表面に付着しているデリケートな感光乳剤に触れることなく写真を壁に留めておく方法を見つけたのがこの時です。時としてこれは、「グランジな」、無頓着な美学的選択と誤解されることもあったのですが、実にこれは私にとって…できる限り最高で、最小限(minimal)のプレゼンテーションでした。
46:00 雑誌のページ、フォトコピー、写真。どれも私にとってはいつでも三次元のオブジェクトです。言うならばとても浅い……立方体です。でも同時に彼らは「空間への」次元も確かに持っています。
46:30 12年間探求し続けた後、写真を実際に三次元のオブジェクトにしてゆく明白なステップを踏みました。2005年以降の”Lighter”と言う作品のことです。
46:50 これらの写真は、もうそれ自身以外の何かを表現(represent)しません。写真はいつでも自分自身でない全てのものを表象(represent)するためにあります。写真は何かを表象するためのツールですが、それ自身はそこに含まれていません。これを通して、私はただ単純に答えたかった、「私を見ているあなた」に。
47:00 2010年にBritish Arts Council Collectionから、リヴァプールのウォーカー・ギャラリー……恐らくイギリスで三番目に重要な、巨匠のような美術館です…で12点の収蔵品を展示するプランに招かれました。そこで私は美術館をリアレンジすることになったのですが、この壁が特に私の興味を惹きました。もともと壁の上方に3枚の絵画が展示されていたのですが、私がそれらを取り払った時、そこに私が期待していた「影」が現れました……そしてその下に展示した左端の絵はウイリアム・ターナー、いつも光をほのかに描写してきた作家です。真ん中はダゲール、写真術を発明したフランス人の絵画。右端のふたつが私の”Lighter”です。
49:10 二つのうち左は、折り曲げられて暗室で異なる色の光に感光されたオブジェクトの直接的な表象です。(This is…a direct…representation of the folded object, being exposed in the dark room to…uh, different colour light. 訳註;ティルマンスはこの時、少し間をおきながらとても慎重に言葉を選んだ。このセンテンスは明らかに複数の、多重の意味を持つようにできている。丁寧に逐語訳すると、『これは折り曲げられたオブジェクトが、暗い部屋で異なるカラーの光に向かって露わにされてゆくのを直接描写したものです』。)
49:22 つまり…いくつもの露光の層が、いくつものタペストリーへの露光が層になってここにはあります。
49:33 これは最近のスタジオ・スティルライフです。
49:43 1999年に、そして2006年にもシカゴで作品を展示しました。これらは4つの異なるシリーズを引き合わせたものです。90年代の間ずっと私が新聞紙から拾い集め続けてきた、兵士の写真シリーズもそのうちの一つです。これらの写真は、90年代から今に至るまで激増し続けているあるタイプのイメージを……つまり、有名な人物や、何か関心を惹くことをした人以外で新聞紙の一面を飾ることのできた唯一の人物写真を、探求しています。いつもそこには、一人か二人かの兵士が、片方はタバコを吸っていて…もしくはアフリカ人の兵士が立っていて、アメリカ人たちが喋っていて…と言ったように、どこかに必ず兵士の写真が載っているのです。私はそれがなぜなのか不思議でした。いつも私たちはこういうイメージを見せられていますが…私はそれを盗み取ってそこに掲げ続けることで…脅威はいつもあると言いたかったのかもしれません。なぜなら、90年代の、冷戦は終わったのだという当時の認識に反して、そこにはいつでも常に軍事的な暴力のポテンシャルが…いや90年代の間も戦争じたいずっとあったのです…でもそこには暴力の方は描写されず、いつでも「平和維持者」がそこに描かれていました。
51:50 新聞のイメージへの興味は途絶えず、翻訳され続けて…2005年に始めたプロジェクトの続きとして”Truth Study Centre”があります。この名前は穿ったところのある、言い辛い名前です。一時代の変遷の後、私たちはとっくに非イデオロギー的なヒーローなどでなく、絶対的な真実を希求する狂気じみた文章を読む自分たちをそこに発見していた、と言う気付きから……例えば、アフリカの健康保健相がHIVはエイズの原因ではないと発言した、もしくはアメリカの創造論者たちの主張、911以降のありとあらゆる原理主義的主張など……突如として誰もが真実を求めて苦しく喘ぎ始めたのです。そして時として、私が読んだいくつものコメンタリーの中で、特に思慮のあるものと感じたいくつかは、私が感じていることを私自身が写真でできるよりもよく表現していました。2000年代は私にとって個人的に、カメラでの画像生成(production of picture)を減速する必要のあった時代でした。90年代は私にとってはすでに超加速的な画像生成の時代だったと言うと少し馬鹿げて聞こえるのでしょうか…なぜなら…今はそれよりもずっと…。(笑)
53:55 カメラを使わない画(pictures)を自分の個展や読む本を通して探してゆくうちに、読むことと、写真の表面、そして画の創造(picture making)へと注意を惹きつけられてゆきました。
54:20 こうしたテーブル・インスタレーションは、私が感じていた矛盾について、世界の至る所で起こっているそれについて話す方法となりました……石油採掘や、イラクに確実にあると超越的に主張されていた大量破壊兵器について──それはのちにほとんど虚偽の、アクティブな欺瞞だったことが判明しましたが。その時歪曲された真実は部分的に今私たちが内側に住んでいる混乱の引き金にもなりました。私はテーブル・インスタレーションと大きく拡大プリントされた非具象的な写真の間で分裂しながら、物質としての画像を探求し続けました。
55:38 2009年ごろに、私はある世界の外側を、私のスタジオの外は当然のこと、私の知人の環の外を、私のルーツや私が住んだ都市の外を、知りたいと思って…私とはなんの関わりもない場所へと出かけてゆくようになりました。ピクチャーを撮り始めて20年経ったあと、世界がどんなふうに見えるのかを見たいと思いました。少しずつ…いや、そう遅くもかからず、2012年までの4年間で私の本と個展”Neue Welt”の形をとった結論に達しました。それはデジタルカメラの使用と…私が2009年まで正しく使えていなかった……と同期して現れた作品でした。2009年に私は気付きました;35mmフィルムと全く同じサイズのチップが入ったポータブルなSLRが現れた今、フィルムにしがみつくことはノスタルジックにしかならないと。
57:25 私がデジタルに一度も興味を抱かなかったのは、オプティクスが同じでなかったからです:それは小さなチップで、異なる被写体深度しか作れず、その光学的な感覚の違いはすぐにはっきりとデジタルだとわかるものでしたから。しかし突如として、4×5カメラのようなラージフォーマットと同じくらいシャープな機材が私の手のひらに載っているのだと気づきました。それまで、過去にも、何度か「私の画像は、私の眼から見た時に感じるものと限りなく近くなければならない」と私は言っていました:実際には、眼がものを見るやり方は脳がそこから演算する方法とは大きく異なることを誰もが知っていますが。しかし、そうした私の眼による情報のレヴェルと、カラー、現実感(sense of reality)がいつも私の指導原理であり、特殊効果などは私の関心をぜんぜん惹きませんでした。ラージ・フォーマットの写真に感心することはありえたかもしれませんが、でもそれが私の心に触れることはあまりなかったのです。私の視覚の経験のようには及ばないからです。
59:00 それは時間のかかるプロセスでした;2009、10、11年……私がいわば自分の言語を学び直すまで。そこにあった、この驚くべきフォーカスに対する疑念は、ほとんど全ての写真に現れています。そしてこの学習期間の終わりに、私はこうした画を巧く話せるようになっている自分に気付きました。その間に、全世界の方が高解像度へと移行していたからです。なぜか、世界というものに抱く感覚そのものと一緒に。
59:55 その時、自分がすっかり自らの意志のみでその移動を決めたことに今では心から感謝しています。誰からも強制されなかったことも。なぜなら、その翌年にフジが私の使っていたフィルムを生産停止したのですから……自由な男のようにそうできたのはよかった(笑)。
1:00:23 それはとてもラディカルな……いや、うーん、ラディカルじゃなくて…でもそれは移行の完了でした;パースペクティヴの変化と、私が25年住んでいるロンドンのような都市を見る時の新しい見方を得たこと……パプア・ニューギニアやティエラ・デル・フエゴのウシュアイアのような知らない場所へ行ったこと。
1:01:00 率先して表層的(deliberately superficial)な見方をすることで世界の見え方を捉える方法も獲得しました。それはもちろん、世界の全てを思い出そうとするたびに立ちはだかるあの不可能性のための、最も不完全なやり方です。
1:01:40 うーん……そうだな…あのですね…今思ったんだけど、もしかしたらこの写真には…『クソのビルが上、左、右、中央へ伸びてゆく(Shit Buildings Going Up, Left, Right and Centre)』というタイトルがいいかもしれない(笑)これは世界の至る所で目にしたグローバルな現象でもあるのですが、この写真はIKEAの鎧のような安っぽい構造が、片手間でこしらえた幾何学的な装飾をおっ被されつつも今まさに私のスタジオへとじりじり迫っているところです。2011年まで借りていた私のスタジオは2階にあります。そんなわけで、このスタジオは今や歴史となってしまいました。今はメインのスタジオはベルリンにあって、普段住んでいるロンドンと行き来しています。
1:02:40 …私はいつも…私が視るもの全てに、それがそう見える見え方には必ず理由があるのだと深く感じてきました。利他主義のように聞こえるかもしれませんが…ひょっとしたらそうなのかもしれませんが…ものがそのようにある形をとる理由は……つまりものの表面に対する鋭い観察(acute study)だけがきっと私が本当に持っているたったひとつのことなのです。もっと深く進もうとすると、もっと深く切り取ろうとすると、また別の表面が見えてきます。人が「これは表面的だ(superficial)」と言うのを聞くとき、しばしば不信を感じます。あるものを「表面的だ」と非難する時、それは時としてただ表面に奥行きを見ていないことがあると思うからです。
1:03:50 例えば、私が普段よく観察するものに車がありますが、車はいつもその表面(superficial)で外観を照らし返しています。欲望や、時代の熱望するもの、特に、それが市場に投入される5年前の当時にあったそれらを……そして社会全体が抱く夢や望みを…。
1:04:30 10年前、車のヘッドライトを私は観察していました。そして、前時代にはかつてフレンドリーな円形や四角形だったそのシェイプが、エクストリームな鮫の眼にも似た光の彫刻へと変遷してゆくのを…。
1:05:00 それは一方では高度に複雑化した光学的インストゥルメントを約束しながら、同時にとてもたちの悪そうな目線をたたえています。表面と、その背後に深く読み取れる本性との間にコネクションがあることを例証してみせています。
1:05:30 なぜなら、私たちが眼にしているこうしたエクストリームな外観への変遷は、超絶的に硬化した競争性……世界内で極度に経済的に、利己的になるスタンスを…を照らし返しているのです。この3台のBMWを通して…。90年代 から、「いじめっ子」へと(From nineties, to ‘nauthies’)。現在のBMWは日本のグロテスクなマンガに出てくる顔をモデルにしたように見えます。でもそれは至る所で同じです…アメリカ車、日本車、韓国車、ドイツ車。それは街じゅうで起こっている攻撃性の加速です(It’s the aggression on the street )。誰もこのことを話していません。
1:06:28 私は今まで、こうした強烈な視覚を通して現れてくる存在感についてあまり語ってきませんでしたが……先月、小さな本を出版しました。”The Cars”という本です。私が言いたいのは…これらの光に判決を下すことなく見ること、私がもしこれらの…光学や、光のオブジェクト…に魅了されていなければきっとそもそも気付きはしなかっただろうと…。私は車に魅了されているし、彼らのことが好きなのです。彼らは明らかに必需品でもあり、グローバルな…また個人にとっては自由のための驚くべき手段でもあります…例えそれが、穴であっても…日増しに…持続不可能なものになっていっているとしても…。
1:07:50 私は…自らの作品を…拝物的(fetishous)なシナリオの……私の仕事の大部分は表面を、世界、三次元の世界を………その三次元性に覆い被さっている表面をよく調べ、ピクチャーに翻訳することです。判断を下すことなく…でも決して批評眼を失わずに。これはおもしろい一例ではないでしょうか。この表面は、時の直近の記録を運んでいます。ベルリン大聖堂の柱です。WW2中に受けた傷跡が、デジタルなピクセル加工のように見えるもので応急処置を施されています。それは石材なのですが。
1:09:30 このような、画像と現実、抽象化と形象化の間にある二分法(the dichotomy between abstraction and figuration)はずっと私にとって…きっとフォトコピーの経験によるものかもしれませんが……私にとって白黒のフォトコピーは、オブジェクトです。ものです。でも同時に「なにか」のピクチャーでもあります。例えば、これはミシガン湖です。でも、カラーのグラデーションでもあります。
1:10:25 そしてこれはみなさんが住んでいる美しい街です。でも今や劇的(drasti…)……いや、ブルーの表面の細やかな侵食は…つまりそれぞれのブルーの表層がそれでも依然として…それは水ではありません。それはただ眼が水だと……眼がそれを水として読んでいるだけなのです。
1:11:00 それはもちろん、写真の大きな力です。脳が何かを写真として(絵画ではないと)認識した瞬間、何をみていようと即座にそれを「リアルな何か」に翻訳します。
1:11:38 …それは、シカゴのインダストリアルな表面です。
1:11:45 私は自分の建築に対する大きな興味にもかかわらず…火曜日にここに到着してすぐこれらの写真を撮って…Tをふたつくっつけるというこの素晴らしいアイデアを私はよく理解できずにいるのですが…(笑)これをなんと言うのでしょう?I-Beams(断面がI字形の鋼材)ですか、そうです、この装飾…。
1:12:08 この巨大な表面とその容積に向かって溶接された装飾は、建築の世界でそれが更に追求されるよりずっと前のものです…。
1:12:30 以前のスタジオでも好奇心をもって探求していたものですが、こうしたモーフィングするアンダーウェア……アンダー…アーマー?(笑)そしてナイキを追い立てるような”COMBAT”、圧縮されて…閉じ込め症候群的にロックされるための…
1:13:03 20年前には、誰もこんなふうに自ら望んでギチギチになろうなんて思っていなかったと思うんです(笑)これをみているとどうしても超合金のことを思い出します…(笑)一体なにが起こっているんでしょう? きっとこの、”MAKE YOUR BODY YOUR MACHINE”というような、体とアーマーの混合を、服として体の表面へと可能な限りタイトに持ってくる…しかもできる限り潔癖に見せようと…
1:13:55 私が思うに、この、常に脅威に晒されている国家というアイデア、しかも特定不能の脅威によって、という……それはもちろんリアルの脅威ですが、そうしたアイデアは、毎日の生活へとこうしてきちんと翻訳されていきます。消費主義のヴァナキュラーへと。
1:14:20 私にとっては結構衝撃的でした…これを見たときに。……ミシガン・アヴェニューに、アンダー・アーマー・ハウス…
1:14:44 これは私の”Neue Welt”の、比較的大きな展示の眺めです。’New World’はもちろん既にアメリカに統率された世界ですが…ここには新即物主義やバウハウス、ヨーロッパ大陸のモダニストたちの試行といったものが、90年代的な感触でそこにあります…つまり世界を類型学的に分類する目でみる、アウグスト・ザンダーやカール・ブロスフェルトによって築かれた長い伝統…私が育ったベッヒャー派から受け取ったけれども、有難みを忘れていたようなこと…
1:15:55 これは55分喋ったことを知らせるアラームです(笑)…あと20分ほど続けても大丈夫ですか?
1:16:10 私は、自分自身と自らの経験をすっかりあの類型学の中に見て取れます。そして私はモダニズムの子どもです。でも、それがきっと、もう私がそれをしなくても良いというはっきりした理由なのかもしれません。だから私が必要を感じなかったのは、深刻さ……常々思うのは、写真の世界では、深刻さがプロジェクトを深刻にするのです。私はそんなふうには感じませんでした。なぜ一つの主題の写真に自分を閉じ込めなければならないのか?私にとっての世界の経験は、いつもmultitudeの経験です。
なぜずっと建築が私の関心を惹いてきたかというと、建築ほど私たちの生活に影響を及ぼすものは他にないからです…多分……薬などもきっと恐らくそうですが…。毎日、常に私たちは建築に囲まれています。私はそれがほんの少ししか語り合われていないことに驚きを感じます。どのようにものがつくられ、ものが建てられ、何が決定的な影響でそうなったのか、方針、材質、ディテールの選択、生のクオリティのための手段、数百万人の人々のための。
1:18:15 そして8年か7年前に、初めて”Book of Architect”というタイトルを思い浮かべました。建築家ともっとコミュニケーションをとりたい、という願望から出てきたものです。建築の機能とリアリティについて、誰もが眼にする理想化された建築写真……あれについて私は人生を、人間を締め出すような写真だと思っています…とはまったく異なるフィードバックをできるのではないかと思ったのです。
1:19:05 ある建築家が私に「私たちは写真のために建築をデザインしているのだ」と言ってきたことがあるのです…。それでは写真と建築の連動している関係を、あのいつも真っ直ぐに叩き伸ばされたパースペクティヴを逆転させて…あれは私が実際に眼で見ているパースペクティヴとは、私が見ている世界とは、少しも似ていませんから…
1:19:39 また、Neue Weltに関連して、私は37カ国を訪れました。その間に膨大な数の建築のピクチャーを集めてきました。とても印象的だったことは、世界の建物の大半は建築家の手に頼らず建てられた……それは建築家なしで建築された世界だった、ということでした…。またそれとは対照的に、グローバルな語法、私が個人的にCladding(覆い被せる)と呼んでいる語法も全世界的に見受けられました……例えばこれはサウジアラビアのジェダ…。
1:20:40 私が1990年代から2000年代初頭に表明していた建築への関心は、”Cities From Above”に表れています。私はいつも、都市というものがいかなる時でも人間がコントロールできる範囲を超えていることに魅了されていました。数えきれない、莫大な数の個人の行動の総和の中で…ある個人が行動するたびに、クライアントや建築家たちはこの問題を、このプロジェクトを、とても優れた形で解決できると考える…そして時間が経ち、需要が変化し、用途が変化し、それぞれの理想的な解決法にしがみつくことで明晰さを崩壊させてゆく…。
12:21:59 建築の不純さは、私にとって生き生きとして、人間を感じさせます。優れた解決法、笑ってしまう解決法、まずい解決法、そしてたくさんのランダムで、とるにとらない解決法…
1:22:30 そして、私はなるべく宗教は除外しておこうと試みています。実際、この写真はプロジェクトに入ってはいません。サンクトペテルブルクのマニフェスタの写真を代わりに入れましたが…プーチン政権によるロシアの暴力的な再宗教化に関するコメンタリーとして… 彼らはコンクリートのバンカーを壁面に貼り付けて、装飾をスプレーしていました。ロシア正教の教会です。2009年のモスクワですね。長いこと、1キロ間隔で教会を建てようとする試みが行われていました。
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