声、非物質、ジオトラウマ
現代のアニメソング(特に キャラソン )には二重の記名性がある。最初の主体の審級は声優自身の身体的な事実としての声であり、第二の主体の審級はその声優に憑依すべきキャラクターの、彼ないし彼女の自己同一性を維持し特質づける現象としての声である。アニメソングにおける自己表現、それは一体なんだろうか。それは作詞家ないし作曲家の、ひいてはそのパフォーマーの自己が間接的に表現されるものだろうか。当然だが、そのどれもがこのような地平では棄却されるだろう。アニメにおけるキャラクターはそれ自身が既に内在現実を獲得しているからだ。少し言い方を変えよう。日本において、アニメのキャラクターはそれ自体内的な現実と世界とを持ち合わせた世界内存在である。それは製作陣とファンダムによる合意と契約の総体によって(p2pやリング署名方式のように)虚無の内に成立しているのではなく、そのように複数のプロセスを経て、自らの生成要因と過程からやがては自律的に実在性を携えて独立し、むしろキャラクターの方に主体があるという形をとって 存在 しているのだから。それはわれわれの事実認識のモードが根底的には汎神論者のそれであることにも関連しているだろう。そこでパフォーマーが要請されているのは、その非物質の主体を受け取るVesselとしての現在に他ならない。レコーディングブースの中で、声優は定義上自らの固有名と自己同一性を一時的にだが完全に喪失している。 声は、最も初歩的な身体の特定因子である。 奇妙なケースも存在する。HyperdubのLaurel Haloによる初音ミクを用いた 諸作品 だ。歌詞は松任谷由美のご子女の手による日本語のものだが、歌謡曲とJ・ポップを彩る極めてミソジニスティックでオブジェクト的な性別観と階級意識を反映した「ただ歌うだけの対象物」としての初音ミクを主体に置いて書かれている。Laurel Haloの採った戦略はこれを完璧に逆手にとる見事なものだ。むしろ極めて有機的な、ポストハイデガー的な「もの自体」へと急接近するかのような音の地層と、(非)物質性の闇に初音ミクを再配置しているのだ。裸のピアノで簡素に並べられたキュビズム的なコード群はそうした物質性への再配置という点でも非常に効果的だ。ところが、「あたしと遊んでくれないと転んでしまうかもしれない…」の一節を動機にして、熱量死を経たトニー・オクスレ...